バラ一輪の出迎え
街は秋の色。菩提樹の葉のすき間から射し込む光が透き通って見える。ベルリンの並木道に、去年と同じようにQちゃん(高橋尚子)がトップで帰ってきた。
38キロ地点、応援のために先回りしていた小出義雄監督に、ドイツ人の少女が駆け寄った。「これ、キューちゃんにあげて下さい」。かわいい小さな手に薄いピンク色のバラが一輪。監督は大切に大切に運び、優勝テープを切ったQちゃんに捧げた。
「朝まで眠れなかった。高橋の状態が7−8割でもフェルナンデスさん(2位)に負けるわけにはいかないと思ったから」。勝利の後で、監督は不安だった胸の内を語った。知ってか知らずかQちゃんは、レース前夜、ファンレターの返事を数通書いて床に入った。
そして、スタートラインに立った時は「負けてもいい。練習のすべてを出しきれば、きっと何か得られる」と思ったと言う。2年後のアテネ五輪へ向けて、まっさらな気持ちで第一歩を踏み出したかったのだ。
「私には、何も失うものはないのです」とレース前にさらりと言った。金メダルを獲得し、世界最高記録を出した人なのに…。続けて「アテネで金メダルが取れたら死んでもいいんです」と。
シドニー五輪のころとは明らかに違う。あのときは、「タンポポの綿毛のようにフワフワと42キロの旅に出る」という短歌も詠んだ。走ることが大好きで自己鍛錬のために走っていた。それがプロとなった今、期待や重圧が増し、「自分のためだけ」には走れなくなったのかもしれない。
でも、そんな中で、どんどんたくましくなっている。ベルリンで、サングラスを取ったQちゃんの”はんなり”とした表情が心に焼きついた。
(東京中日新聞/2002年10月2日掲載)
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