運命的な五輪メダリスト
オリンピック史上、日本に女性最初のメダルをもたらした人見絹枝さんは明治40(1907)年生まれ。12月23日、岡山で開かれた第25回山陽女子ロードレース大会は、来年の生誕百周年を記念するものでもありました。人見さんのアムステルダム五輪銀メダルから64年ぶりに女子陸上界でメダルを獲得したのが有森裕子さん。しかもその日は人見さんの命日(8月2日)。運命的なものを感じずにはいられません。
私はこの大会のオフィシャル・アドバイザーとして今年もお招きを受け、開会式や歓迎レセプションに参加しました。楽しみなのは国内外から集まる有力選手達のレース、そして有森さんとゆっくり語り合えるのもここならではなのです。この日、有森さんは人見さんのお墓参りを済ませた後、会場に到着。「人見さんが生きていたら99歳。この会場に集まった皆さんの凛々しい姿を見てさぞかし喜んだことでしょう」と開会式で挨拶。選手達は目を輝かせて聞いていました。
そしてその夜、有森さんとホテルのラウンジで杯を傾けながら約3時間。私たちはいじめの問題から国際問題、陸上界の今後のことなどを熱く語り合いました。常に世の中のことに問題意識を持っている彼女の姿勢には、頭が下がります。現在米国・ボルダーを居を構えているからこそ、外から見える日本に対しての鋭い視点が私には新鮮でした。
やはりマラソンの選考については、一段と熱が入ります。「選手は何の責任もないのに、これまで何人もが深く傷ついた。選手が納得する選考をするため、私は選考委員に立候補したいくらい」と有森さん。
女性スポーツの発展に向け、後輩たちを海外の大会に連れて行こうと自ら資金集めをした人見絹枝さん。プロ化の道を拓き、後輩達の環境づくりを一生懸命考える有森裕子さんが重なって見えました。
(共同通信/2006年12月25日配信)
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